金峯山寺の歴史
金峯山寺(きんぷせんじ)は、白鳳年間(7世紀後半)に、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)(菩薩号:神変大菩薩(じんべんだいぼさつ))によって開創された。 役行者は、『続日本紀』によると、舒明天皇6年(634年)1月元旦、御所市茅原で誕生。幼名は小角(おづぬ)といい、幼少の頃より葛城山で修行し、のち、金峯山にて壱千日の苦行の末、金剛蔵王大権現を感得した。また全国の霊山名峯で役行者の開山伝説を持たない所は希有なほど、その足跡を多くの行所に残している。その行力によって、超人的な境地に達し、宗教家としての名声が当時の天下に鳴り響いていたのは間違いないといえる。文武天皇3年(699)、韓国連広足(からくにのむらじひろたり)の謗言により伊豆大島に流罪になり、3年後の大宝元年(701)、許されて都に戻ったと続紀は語る。また同年6月7日箕面天上ヶ岳において昇天されたと伝えられているが、異説も多くあり、海を渡って入唐したなどとも伝説されている。  その役行者によって桜の木に刻まれた蔵王権現像は、山上ヶ岳と吉野山の2ヶ所に安置され、これが山上山下の蔵王堂のおこりであり、金峯山寺の草創である。平安時代から中世にかけては、奈良の興福寺と深い関係があった。平安時代以降、金峯山は多くの僧徒と寺領荘園を有し、僧兵の活動も顕著であった。元弘3年(1333)に鎌倉幕府の大軍に攻め寄られ、堂舎は多く焼かれてしまった。江戸時代になると、金峯山は、天台宗の僧で、徳川家康の顧問である天海僧正に支配され、日光輪王寺、比叡山延暦寺と、たいへん深い関係を持つことになった。明治維新ののち、政府によって神仏分離が断行され、一時は、修験道自体が廃止されたが、政府への嘆願の功が成り、明治19年に、仏寺に復帰した。しかし、これ以後、山上は大峯山寺、山下は金峯山寺として、別々に歩むことになった。

金峯山寺の概要
修験道の根本道場。金峯山修験本宗の総本山。金峯山を含む吉野一帯は、古くから神祇、道教、仏教などの宗教者がたいへん多く、吉野は、当時から名だたる聖地であり、仙人が住んでいるとも信じられていた。とくに、修験道の発達とともに、その聖地となった。10世紀初めごろには、一般的にも金峯山の霊威の名声が、確立していたようで、僧侶をはじめ、貴族や庶民の金峯山詣も、次第に盛んになった。金峯山詣は、御嶽詣とも称した。この頃からすでに、山上ヶ岳は女人禁制だった。明治維新ののち、政府によって神仏分離が断行され、一時は、修験道自体が廃止されたが、政府への嘆願の功が成り、明治19年に、仏寺に復帰した。しかし、これ以後、山上は大峯山寺、山下は金峯山寺として、別々に歩むことになった。明治以後、金峯山寺は天台宗に属し、修験道大本山となったが、昭和23年に独立し大峯修験宗を開いた。昭和27年に現在の金峯山修験本宗と改称し、本来の修験独自の宗派を形成した。昭和26年には、蔵王堂の西の谷に脳天大神がまつられ、新たな信仰の拠点となっている。

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